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数年ぶりにパチンコに行った。
パチンコといっても1パチといって、1玉1円で安心して遊べるやつだ。1玉4円だった頃は1時間もあれば5,000円やそこらが簡単に溶けてしまうので、打ってるほうは気が気じゃなかった。その点1パチは2,000円もあればそこそこの時間が潰れる。
(この玉1個が1円か。)
そんなことを考えながら打っていると、上手く中ってじゃらじゃら玉が出だした。4パチと比べたらいくら引いても飲み代にもならんぜ、とスカしてみたが、玉が出てくるあいだはそんなことは関係ないようで、結局閉店まで打ってしまった。にやにやしながら、
玉が入る。抽選され、中る。玉が出る。反復。その事象を確認しようと注視する。けれどもそれらの事象は常に同時多発的に、連続して進行し――や、進行させているのもまた僕なのだが(だってもうすぐ閉店だしもう1回確変引かないと)、既に僕は機械の一部であり、片目は上空からその機械を眺め、そしてもう片方の心で、箱いっぱいの玉を台から下ろしてくれる店員さんに、申し訳なく思っている(あの連チャン早く終わんねーかな)。
機械。僕を活動(というにはあまりに寄る辺ない)せしめる運動と、僕を機械の一部たらしめるより大きな機械。螺子の思想。螺子は螺子としての生活に、その環境の不義を見抜いていたとして、それを変革することはできないのだ。ただあるとすれば、構造の緩みからくる振動にまかせて、持ち場から吹っ飛んで消滅する(誰にも気付かれずに?)。
結局、ニルバーシュがだいぶ頑張ってくれて、最終的に
大当たり30回、計30,000発ほど出した。
交換所に行くと、18,000円余のお金と摩り替わった。
(この玉は1個1円じゃなかったのか。)
得心して、自転車に乗った。
僕はもうパチンコは打たないと思う。
かわりといってはなんだが、演劇とかする。
僕らは螺子でありながら、螺子ではない。