ひとまずの『不変の価値』の今後

山口に戻りました。

先日のブログ、読み返すとあまりに弱気なばかりか、ウェットすぎて叙情に溺れているフシがあり、「それが反省している人間の態度か!」と、少し思いました。けれども、どうしてもあのタイミングで書かねば、と思っていたので(そしてそれを今更追記修正するのもあまりにも、、なので)、これはそのままにすることにします。

さて、作家のキャパシティを超えた作品になってしまったとき、作家はどうすればいいか。僕の回答はただひとつで、作品を内包できるキャパシティの作家へと成長するしかない、ということになります。

したがって、山口公演ではやはり、演出を変更します。ただ、現在の作品が持っている「問い」を手放すつもりはありません。

主な指針ですが、
・まず全体を短縮するよう試みます。
・前半のサジェスチョンを抜本的に見直します。
・最後のシークエンスを変更します。
この三つを主にやっていこうと思っています。

そのために、僕にとって重要な補助線となりうるブログ記事をふたつ、紹介させてください。

http://navyblue85.blog63.fc2.com/blog-entry-10.html

http://d.hatena.ne.jp/urutang/20121126/1353944782


それぞれ別の回へのリアクションですが、『不変の価値』という作品にとって、非常に重要な指摘が含まれているように僕には届きました。ありがとうございます。


(このあたりから自分への確認が強くなって文体が変わります。)


足りないものを補うためにはまず「何が足りないのか?」を問うことが必要。むろん考えなくとも修練を積めば、ある特定の技術は習熟されるだろう(いちばん安っぽい例だと、毎日腕立て伏せすれば腕力は今よりもつく)。けれども演劇の技術とはなんだろうか?などと考えてしまっている、既に。


根本的な課題として、丁寧さと野心の問題がある。どれだけ抜けの良い視座で、細やかに行為していくか。これは僕自身にとっても、クリエイションスタッフ全員にとっても、大きな課題だ。一朝一夕で作家としての体力が伸びるわけはなかろう。だから当然、なるべく毎日作品に取り組むのだが、地道なことをどれだけやれるか。こんなものでは届かない、と思って、自分の作家としての力量すら構造化するバクチまがいの大技を手の内に入れたが、だからといって力量が伸びなくていいという話ではないし、伸びた上でもまだ大技足りうる説得力を作品が持たねば、やはりそれは「上演する」という暴力性にアテられているにすぎないのだ。


答えを出さねばならない。
正面性を変更するアイディアはえだみつで獲得したものだが、それだけの根本的成長を池袋でできたか?答えられないということに対しての甘えはなかったか?言うまでもなく答えられないのだから、答えてもいいのだ。誰かから貰ったものでも、奪ったものでもなく、自分の答えを出そう。そうすればツアーは終われるだろう。そうでなくては、終わらせてはいけない。「問い」そのものは、不変ではなく不滅だ。移ろい滾る火に冷水ぶっかけるような答えを出そう。瓦礫なのはわかっている。しかし、そも、鎮火しなければ住処は作れない。


これだけのことをやった(やってしまった)のだ。問いそのものにだって、暴力的に誠実であることはできるはずだ。
自分の誠実さにすら、暴力的に立ち向かうことだってきっとできる。