フェスティバル/トーキョー12 公募プログラム 『不変の価値』を終えて

久しぶりにブログを書くことになる。
ずいぶん長くほってしまったのは、これを読んでいる人なんて別にいないのだろうな、と思っていたからだった。
その点演劇はいい。と思っていた。目の前に人がいるから、やる気になると思っていた。その気持ちは今も変わらない。けれども、目の前に人がいるということは、恐ろしいことだとも強く思った。

アレモ人ノ子。生キテイル。
論理は、所詮、論理への愛である。生きいている人間への愛ではない。
太宰治『斜陽』, 新潮文庫, p.66, 1947)

そう引用して、自分への釘は刺したつもりだったのだが。やっぱり分かっていなかった。
どれだけ自分が、自分にとって都合のいい観客しか想定していなかったか、そのことを思い知らされた恰好だ。


『不変の価値』という作品を作り、育てた。
昨年からリ・クリエイションをすることにして、僕が決意したことはいくつかある。
そのうちのひとつに、「自分にとって都合のいいことだけを考えない」というものがある。(つまりそれは、できるだけ取材した言葉に切り取る以上の手を入れないだとか、自分のなかの露悪性、悪意、美しくないもの等を舞台に乗せることを厭わない、ということだ)しかし恐ろしいことに、「都合のいいことだけを考えない」というのは、結局「自分にとって都合のいいこと」への対置でしかなかったようだ。つまり判断としての美醜/善悪なんてのはなんにも揺らがないままセレクトしてしまっていた。
(この件に関しては観にきてくれた大学時代の後輩に指摘され、気づいたことだ)
この作品に問題があるとすれば、それが最大の問題だと、僕は思う。


プレビューはなんとか組んだ、というかたちでしかなかった。初日はまあ組み上がったが、それから少しずつマイナーチェンジを重ねた。主にやったことは、後半の(つまり僕が独善的に演出した部分)修正ではなく、前半のお客さんへのサジェスチョンの調整、段取りの確認だった。後半はほとんど変えていない。細かな音響のタイミング調整、俳優の声のバランス取り、字幕位置や誤植の修正、あとほんの2シーンほど、照明変化のタイミングをいじったくらい。

F/Tの面接に行った段階では、主に前半――お客さんがオーダーしていく部分の話になった。
「後半、作家としての本懐だと思うんですが、どうですかね?」と聞かれ、「そのときはよかったんですけど、イマイチ面白くないんですよね」と答えた。構成の面で、僕が前半は危険な、しかし実際は安牌だと思っていたということだろう。そんなことより後半、こんな狭量なテクストや、世界観で構成していてはだめだ、と。けれど実際に危険だったのは、やはり前半なのだった。ほんの少しの言葉のニュアンスや言い回しで、ぜんぜんお客さんの状態が違ってしまう。そのことが、わかっているようでわかっていなかった。


最終日には理想的な関係を、お客さんと築くことができたように感じている。
僕は話がしたい、とずっと思っていたのだった。究極的には、作品がどうのこうのということではない。「こういう問題があるがどうしようか?」ということを、お客さんとともに観るために、作品めいたものが必要だった。そのためにお客さんに強いた部分が多くある。
そして初日、二日目にご来場いただいた方には特に、もしかしたらとても不快な思いをさせたかもしれない。
(というか、アンケートやtwitterの感想を見て、そのように思った人も多かったと知っている。)


作家ならば作品そのもののことを考えればよいのだ、作品が作品として明快であれば、それが強さであり、対話を生むきっかけになる。そう考える向きもあるだろう。そしてそれは間違ってはいないとも思う。
しかし、どうやら僕はそんなことは考えていなかった。こと『不変の価値』という作品と付き合ううえにおいては。
起きてしまったこと、起こしてしまったことについて、取り返しがつくとどこかで思っていたし、忘れてしまえばいいとも思っていた。

前半で起きていた言葉との付き合いと、後半で起きていた取材内容、引用元との付き合いは全く質の違うことだ。
前半で試みられるべきであったのは「いかによく交換するか」であり、後半で試みられていたのは「いかに暴力的に収奪し、そのうえで敬意を払うか」ということであったのだろう。そのことを同一化してはいけない。(収奪、という言葉のこういう使い方は西尾さんに教えてもらった。)
そのふたつは驚くほどよく似ていて、気をつけなければ僕自身も取り違えるほどだった。何ステージかは実際、取り違えてやりとりしてしまっていたこともあったろう。そのことについて、本当に申し訳なく思う。


上演を始めてから、とても苦しい日々だった。
うまく関係できないことについて、とても悲しんだ。
それを引き受けることが作家としての責任だと自己確認もした。
それにしたって暴力的にすぎるだろう、と、演出替えも考えた。が、結局そうはしなかった。
それは作家としての、、(なんなんだろう、そういうのをあまり持ったことがないから適切な言葉がわからない)、、からくるものではなく、「作家」と「観客」の関係の前に、「人」と「人」が出会うための準備不足がすぎた、と。正すならばまずは、そこだと思ったからだ。なにせ『不変の価値』は、枝光でも、去年の山口、福岡でもこんな姿を持ったことはなかったから。


おそらくは「人」に甘えていたのだろう、「観客に」ではなく。僕の「知らない人」という想定がなんとも貧しかったのだ。
そしてそれはやっぱり、『不変の価値』のなかで指摘されていたのに。


そして、にもかかわらず、助けてくれた人もあり、『不変の価値』を観て、そのなかに預けた問題をいだき、楽しみ、愛でて、そういうものだね、困ったね、と笑ってくれる人もいた。


技術的に稚拙だ、不足があると言われるのは構わない。致し方がない。精進するほかない。
ただ、この作品が上演に至ったのは、多くの人からの頂きものあってのことだ。(この「頂きもの」という言い回しも西尾さんから貰った。)したがって「谷くんはもっと別の環境/状況で作っていれば」なんてのは、何の意味もない仮定だ。山口でつくっていたってこと、F/T12の公募プログラムであること、それを僕がどう感じ、制作していたかについて。
こうでなければ、こうではないのだ。

しかしそれでも(や、それゆえ、)僕は『不変の価値』の責任を刻む。
取る、というのは傲慢にすぎるし、負う、というにはあまりに多くの人を巻き込みすぎた。もう僕も作らなければならない(本介さんの言い方だと)「呪い」がかかっている。こんな調子だったからこそ、来年も作らなければならない。


「命がけの跳躍」という単語のドラマツルギーにやられていた感じは、少しある。
けれども今回のF/T参加は、気がついたら跳ばされていた、というのが正直な実感だ。それは誰の責任でもない。単なる僕の作家としての認識不足、自覚の欠如だ。
それなのにこんな作品を生んで、持ってきてしまったこと、それが恐ろしい。申し訳ない。
けれど、もうなかったことにもできない。もう跳んでしまったから。



「観客とどういう距離で付き合いたいの?」と鹿島さんに問われた。
僕にはまだわからない。
ただ、「観客」のなかのひとりひとりと、こういうモノについて話をしたかったのだ。そしてそのときの効率のために演劇(松田さんの言い方だと「演劇/舞台芸術」と分けるべきだが)という方法を選んでいた。あんまり(松田さんの言うところの)「演劇」を、僕は信用していなかった。そして同じくらい「舞台芸術」もそうだ。
ただ、なんとか、やれていたのは、それを引き受けて、返そうという相手がいたからなのだった。言い換えるならば、僕にとっては「演劇」も「舞台芸術」も貨幣の類似品だったのだ。そこに価値はない。価値は授受されることで生まれる。
はたして本当にそうなのだろうか?

もう一度、考えさなければならない。
それが、僕が山口に持って帰らなければならない最大のものだ。


あいも変わらず茫漠としていて、重ね重ね申し訳ないと思います。
これだけのおおきな問題をくださり、助けてくださったお客さんに、関係者のみなさんに、改めて感謝したいです。
ありがとうございました。



「途中入退場自由です」と宣言していたのに、あんなに言っていたあのひとはどうして帰らなかったのか?
それはなにか、たとえば愛、というようなものではなかったのか?
そしてその愛(ということにしておくとすればそれ)は、どこに向けられていたのか?
そのことからよく聴き、学びたい。山口へのリ・クリエイションは、そして、次の(なにか適切なもの、もしくは総て)はそこから始めたい。



集団:歩行訓練 代表
谷 竜一



いま、池袋のサクラカフェで、知らないおっちゃんと少し話した。
なぜだかとても(過剰なほどに、、)親切で、、
そういえば、そういうことがとても沢山あったと。思い返してる。