4月1日

私は悲しい癖で、顔を両手でぴったり覆っていなければ、眠れない。顔を覆って、じっとしている。
眠りに落ちるときの気持って、へんなものだ。鮒(ふな)か、うなぎか、ぐいぐい釣糸をひっぱるように、なんだか重い、鉛みたいな力が、糸でもって私の頭を、ぐっとひいて、私がとろとろ眠りかけると、また、ちょっと糸をゆるめる。すると、私は、はっと気を取り直す。また、ぐっと引く。とろとろ眠る。また、ちょっと糸を放す。そんなことを三度か、四度くりかえして、それから、はじめて、ぐうっと大きく引いて、こんどは朝まで。
おやすみなさい。私は、王子さまのいないシンデレラ姫。あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか? もう、ふたたびお目にかかりません。(太宰治『女生徒』末部)

 

ついに一人になった。東京に来てから誰かとずうっといっしょにいたので今朝、はじめて一人になったのだ。

荷物を受け取り、あらかた開梱した。しげぴょん先輩のおかげで九死に一生ものだった。何人かに、「とうきょうきたよー」みたいなメールをした。アルバイトの登録をした。転入届けは、明後日やろうかな。

ひとつづきの文章が書けない、というか、頭の中で浮かんでいることを打鍵していくときにまず言葉、にしてから置き換える、と思っていたが実際はそうではなく、ただなんとなく打ち込んでいてそれを編集して文章とする、というプロセスを踏んでいることに気付いた。今は気をつけて言葉、にしてから打鍵するようにしている。この日記は、つとめてそのような方法で書くようにしてみる。誌を書く時とはあきらかに違うように、私は書く。それも、間違えないように、とか、美しく、とかはあまり思わず、ゆっくりと話すときに自分はどういう言葉づかいをしているか、を、そのまま言葉にしていくように、書く。思ったより時間がかかるな、というのが、ここまでやってみた感想だ。

 

かのひとから、メールが返ってこない。特段用事があるようなことは送ってはいないから問題にはならないのだけれど、上に引いた『女生徒』の話者のようなひとだったのだ、と思うようにした。そうすると実にしっくりきたというか、newclearのウェブ、これが例によって更新が止まっているわけだが、を、みたときにこれが引用されており、かのひとの影がふとその上で立ち止まったかのように思えたのだった。

びっくりドンキーで晩飯を食べた。その前にずいぶん歩いたのだけれど、結局のところびっくりドンキーにしたのだった。そこではじめて、ひとりになったのだ。と気づいた。それからふと、震災のことを忘れている自分に気付いた。放射性物質のことも忘れていた。ほんとうに簡単に、人はものを忘れるんだな、そう思った。

そして、ひとりでいることを、うまく取り扱えなくなっている自分にも気付いた。思えばこれまで、ひとりで住んでいる、という状態にあった期間はじつに短い。山口に越してからもしばらくして石井が転がり込んできていたし、スタジオイマイチに住んでいる間はやはりひとりではなかったわけなので。ひとりで住む、ということを、よく思い出せなくなっている。半同棲みたいな状態にあったときなど含めると、2年やそこらしか実質的にひとりで住んでいる、ということになっていなかったように思う。望んでそうしていたようにも、思う。

とはいえ、壁が薄いことに気付いた。隣の人の声が割りと聞こえる。内容まではわからない。

 

明日はオリエンテーションなので、早めに起きて、ゆっくり上野に向かってみることにする。少しずつ、ここに住まうこと、それから、自分の育て方を自分で決めることに、慣らしていく。意識的にやっていこうと思う。そのようなことを。

 

「常識のコレクション」を、始めた。準備不足もあるが、ともかく始めることにした。少しずつ、望ましい方法に近付けていきたい。そしてこれはこれで、仲間を探す必要がある。日記は例によってサボるかもしれないが、「常識のコレクション」は、のっぴきならない事態を除いては、毎日やることにする。

 

会いたい人がいるが、それは寂しいからではないと僕は思う。

 

「てさぐれ!部活もの」の最終回が、じつにすぐれていた。

 

てさぐれ! 部活もの あんこーる Vol.3 [Blu-ray]

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 ブルーレイを買ってしまうかもしれない。まさか、こんな作品のために。ついに。

 

3月29日 午前

荷物が出て行くのを待っている、迎えに来るのを待っている。

あと僅かな時間しか山口に住んでいないのだから、挨拶にでもまわれば、とも思うのだが、こういうときに限ってなにかしら書く。部屋が片付いたからかもしれない。だったらば常日頃から片付けておけとも思うのだが、つまり、片付けたくなかった、書きたくなかったのかもしれない。

遅れていた仕事にいちおう、かたをつけた。と、いいたいところだが、あとひとつどうしても年度じゅうに書いてしまいたいものがあって、明日明後日はそれを書くようにと思っている。

 

わりあいにすっきりした部屋で、窓を開けて床を拭いてしていたらもちろんえらく汚れていて、それは思った通りだったのだが、ひとしきり拭き終わったら、手荷物のうえに杉かなにかの花粉が積もっていたことに気付いた。なかなか掃除が終われない。

この終われなさが好ましくなく、いつも掃除を躊躇ってしまうのだ。

しかしこうスッキリとさせてしまうと、僕はいままでどれだけの杉花粉(?)を無意識に飲み込んでいたか?と考えたりもできる。という、ありがちなことを確認したりもした。

 

undermapsの展示期間中、大脇さんにとにかく掃除が大事なのだ、と言われた。あるものに関しては意図として読まれてしまうんだから、と。けれど意図にそぐわないもの、呼び込んでしまうこと、それをつまみ出すなんて、そんなこと無理でしょう、と思っていた。しばらく前は。けれどこの話をされた時はそうか、と腑に落ちた。

今住んでいる部屋は、僕の部屋として改装されたのではあるけれど、実際はスタジオイマイチのみんなが改装したのだった。僕は、上記のような人間なので、適当でいいのに、むしろちょっとへこたれていたり、汚かったり、していたほうが安心するのだけれど、と思っていた。僕がいちばんやる気がなかったと思う。

けれど、いざ帰る(今、帰る、とタイプしたけれど?どこへ帰る?なのだろう?)となってみれば、ずいぶん呼び込んだものだなと思うのだ、自分も。

 

先週あたりはえらく色んな人に送別してもらって、酒のせいか胃の疲れが抜けていないのがよくわかる。3日ほど酒を抜いていたら、自然と煙草も吸わなくなった。止めようと思えば止められるように思ったが、あんまり急なので不安に思って、一箱、買った。それでコーヒーを淹れたがコーヒーのほうが少し古くなっていて、よくない。

 

SLが鳴いていくのが聞こえる。

信じられないかもしれないが、この部屋で春を教えてくれるのはSLなのだ。

 

3月28日

本来ならば東京に住み始めていた日。

ずるずると予定はずれ、明日夜に山口を出て、明々後日から住み始めることになっている。

 

東京に行って、最初に観る舞台は鳥公園『緑子の部屋』になりそうだ。

 

ツイッターに、スマートフォンでもパソコンでもアクセスできるっていうのは、僕にとってはやはり過剰なようだ。なにかと悲しいとか、やりきれないとか、そういう気持ちをやり過ごす方法はどうにかして手に入れていく必要があるのだけれど、その方法があまりに多様過ぎるように感じられているのは、なんというか、、歳をとったということなのかな?

 

先日、片耳が聞こえない人と知り合って、この人といっしょに楽しめる作品を作っていこうと思った。

 

 

3月11日

福島で読んだ詩。

 

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それで、

雪が降ると。

山口の人は、はしゃぐ。

福井の人は、溜息をつく。

福島の人は、目を細めて。なにか、思い出すように。

 

 

 

3月10日。昼過ぎにホテルのロビーで新聞を読んだが。いっこうに頭に入らず参った。macbookを膝に載せたおとこや、子どもがおもちゃやさん行く、と言っているのすら、何の話をしているのか理解できない。ああ福島に自動車が走っているな、ゲームセンターがあるな、まさかないとでも思っていたのか?

新聞の、あたらしい連載記事を、一文字ずつ米粒を噛むように読み、それでも意味がわからず、かろうじて、汐見坂という坂を彼らが歩いてはのぼった、という部分にようやく引っかかりを得た。

わたしの郷里にある汐汲峠、もっとも小さい頃はしおくみざか、とよんでいたのだがそれは、思い出された。手水を持っては浜から上がる衣擦れの重さ。

 

 

 

 

しおくみざか

 

 

 

自転車で

峠からそろりと、ブレーキを

離しながら降りていたことを

うねるように山肌を切る道を

おもいかえしながら

見ていた

坂を登るひとを、幾人か

そぞろに花や、塩や、お手水や

それぞれの荷物を、それぞれにかかえて

歩く人を

 

 

いつだったか、トラックで下りながら

まだ若い祖父が言ったのには

ずうっとこの坂道をな、売りもん持って歩いたんや、

海から、街へ

街から、海へ

 

街、のこともしらない男の子たちは

大きなものを動かすことにばかりかんがえて。

トラックやら、電車やら。

雪の日なんかは特に

やたらに大玉をこしらえて。

坂の上から転がして。

これで家をつくるんだとかなんとか

大きなことを言って。

 

送電線を伸ばして。接続し、

海のない街にきて。接続し、

道の辺に波打ちのあとをさがして、みつからず、

桃の花をさがしたら、3月は空に溶けて、

溶けた、3月を新芽の色をした新幹線が、溶接する、

知りもしない思い出まで、

わたしたちを運んでいく、今日。

雲を引っ掻いて溶け残った雪。

わたしは歩くたびに、それも

汚してしまう。

 

たったひとつの街に、生きられなくなったばらばらのわたしたちの部分は、

あんまりにも集まれずに、

けれど庭にわの花、時どきの花、ところにより、雪、

あなたの自由はそれだけ、そう、ない。まったくない!

E.イェリネク『光のない。(プロローグ?)』)

 

たったひとつの街で、

 

たとえば――横浜に汐汲坂という坂があり、蕎麦屋があり、ネイルサロンがあり、中華を出す店があり、歩くほどに勾配はきつくなり、わっせ、わっせ、歩いて、山手通りを西へ、女子校があり、女子校の反対側には女子校があり、街には外国人が入ってきて、高台に乗って、海を見て、液状の記憶を埋め立てて、雲にのって、福島の風が、届くまで、もう少し、かかる、のだが、

 

こんなことがなければ山口(この街)に来るなんて思わなかったなあ

と、向かいに越してきたカレー屋の奥さんは言った。

そんなもんですかねえ

でも、いいところですね

そうですかねえ、夏暑いし、冬寒いし

それはこっちだって同じよ

(けれどあの時見返した海は今日と同じだったろうか)

 

たったひとつの街に、

 

わたしたちは別々の場所で、別々のからだを生きる

雪が溶けて、そのことを忘れて、忘れても

忘れがたない、雪と、花

(霙は溶けて、虹に、、?)

そんなもんですかねえ

(そんなこと、考へるの馬鹿)

 

終わってしまったと思っていた桃の花は、まだ始まってもいなかった。

時間をひとつ、またぐたびに

季節は遅れて、花の香も遅れて、

届く。そして遅れ気味に(電気よりはだいぶん遅れて)、

いのりも。まぬけた顔で、

届く。春に、

ようやくこの街は手をかけたところ

 

祖父は(つぎの春に死ぬのだが)、坂をのぼっていく。切り花を背負って。

 

わたしも今から、また新幹線に乗る。

3月9日

今から福島に行きます。そのあと東京。

詩をすこし、書きました。福島で読む詩は、まだ書けていません。

 

  「3月3日は家族の日」

 

かつてハムレットは答えた
「元気だ、元気だ、元気だ」
オフィーリアに加減を問われたときに
このときのハムレットが病気であるにせよ、ないにせよ
オフィーリアがどうであるか
オフィーリアは水に流れ
ハムレットは機械になっており
元気だ、と繰り返すのはらくちん。
gのキイを打てば予測変換する
元気だ、
↓、エンターキイを三度
元気だ、元気だ、
さっぱりして
蛇口をひねっと
顔を洗うんば、肌がやっ、と声をあげぬる
水はいたい。
湯加減はどうだ、
父は尋ねるが馬鹿
水はひびわれ。



   3月3日は家族の日



おとうとは帽子を目深にかぶったように見ている空を
空を見ているようにビルを。雪吊の屋根を。
きれぎれの前髪から。
やっとこ父を、兄を背丈を抜き、とうに祖父も
だれより高いぢべたから
つまらなそうに箒をかけた昼間のあと
埃が天にかえるような時間に。
せなかは丸まっている。
ずいぶん太ったと笑いながら男どもは
たとえば焼香のじゅんばんがまわって
大きな背を、
小さく小さく丸め。
男どもはその背中をさするように知っている。
骨がすっくと撓っていること。
白い竹。
棒切れを振って歩いた山。




うちのオフィーリアは。
嫁に行ったのだが、愛想はなく。
名古屋で、金屏風の前で。
紅いドレスを着て。ぶさいくで。
わらっていて。
わらっているときは大抵こまっていて。
ハムレットは半分はげていて。
眼鏡がずっていて。

むかしオセロをしていて、姉に負けるたびにくやしくてしくしく泣いた。
こいつは手加減というものをしらないで、
わざと負ける器用さもなく。
つまりかわいらしくもなく。
そのくせこまっていっしょに泣いた。
このきちがいが、自分のことでは泣いたのをついに見たことがない。

金屏風の前でもやはり、呆けていたので。
げはげはと母と笑った。
新幹線に流されながら、レアティーズは泣いたか。
ポローニアスは漸く、ちいさく丸まっていたが?





むかしうちにはくろねこがいて
ちちがひろってきたやつで
ひざうえにほくろのようにちょんとして
かつてわたしもすわっていた
そのくろいあなぼこをみている
くろはとうぜんいまはしんで
やまにうわって
そのやまのへにちちは
未だすんでる
ははも




3月3日は家族の日。
風に目を細めては投げると
父は茶髪にしてやがつた。
このやろう。
元気だ。
元気だ、元気だ、元気だ。

3月8日

まだ7日の気分ではある。23時ごろ、うとうとし始めてきて、このまま眠れるかもしれない、と思っていたらふっと起きてしまった。寝てしまったほうがよかったのだが。

 

kindleでマンガを3冊ほど読んだ。

クロス・マネジ 5 (ジャンプコミックスDIGITAL)

四月は君の嘘(8) (月刊マガジンコミックス)

1/11 じゅういちぶんのいち 7 (ジャンプコミックス)

それから、遠野物語を少し、読んだ。

遠野物語

 

具体的である、ということについて、時々考える。

明瞭な目的意識を持つこと、それを実現する能力を培うこと。

にもかかわらず、現実に観察されるものを肯定し行動すること。

サッカーがしたいかもしれない。

 

昨日は「結局自分のことしか考えてないんじゃないの?」という指摘を受け、今日の出来事を振り返るとまんまと自分のことばかり考えていた気がするので参った。もう少し前は、今よりずっと他人がどう考えるか怯えて生きていたように思うが、そんなことでは耐えられないと意識をカットしていたら常態化してしまっていたらしい。

この手のことでしくじると、それこそ前後不覚になるくらい動転するので、ある種の開き直りは僕が今、生活している上でとりあえずは役に立っている気もする。しかしそれは決して美しくはないとも感じる。

 

来年の新作は、「常識のコレクション」というタイトルにしよう、とぼんやり考えている。

http://e-honyakusquare.sunflare.com/shuppan.sunflare.com/did_you_know_that/7_common_sense.htm

コモン・センス 他三篇 (岩波文庫 白 106-1)

それから、ガイガーカウンターを買わなければ、と思っている。

 

福島に、来週頭、つまり3月10日から12日のあいだ、行く。

11日には詩も朗読する。なにを書けばいいのか、まだよく分かっていない。

そういえば、山口のことをほとんど書いていないなあ、と思った。

自分はあまり、山口のことを知ってほしいと思ってはいないのだろう。文化行政や、芸術作品の街の受容については誤解ないよう伝える責任があるとは思っているが、山口市に10年住んで、この街を別の場所でコマーシャルする必要をあまり感じていない。どこにでもあるようなものがここには沢山ある。そしてそれはかなり快適だ。この街にしかないものを、あまり思いつかない。

あまり興味が無いのかもしれない。比べたことがないからかもしれない。

責任感がないのかもしれない。だとすれば、問題だな、と、思う。

 

「東京へ行くの、楽しみでしょう」とよく聞かれる。

正直なところまったく想像もつかなくて、楽しみだとか、怖いとか、思うところまですら辿り着けていない。

 

1月1日

 

ニュー・シネマ・パラダイス(オリジナル完全版)』

これは議会の消失とインターネットについての映画では?などと読み替えを試みる。

これを観てノスタルジーに陥るのは明らかに勿体無い。

ニュー・シネマ・パラダイス 完全オリジナル版 [DVD]

 

 

大友良英・ハイブリッド音楽館』

ローランド・カークに特に注目。今までちゃんと聞いたことなかった。

レコードされたものを聞くので歴史的に捉えてしまいがちだけれど、

生まれては消滅していったり残っていったりするものを聞くのが音楽、

という旨の発言がおぼわっている

ヒア・カムズ・ザ・ホイッスルマン

 

哲学の「て」v.v『芸術の終焉の彼方へ アーサー・C・ダントを偲んで』

「識別不能体のメソッド」と「芸術の終焉」について。

 

戯曲書けず。なんとかがんばりたい。